The Development Process of Park System Planning of Comprehensive City Planning in Osaka
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1.はじめに (1) 研究の背景と目的 1928(昭和 3)年 5 月に内閣の認可を得た総合大阪都市 計画(第二次都市計画)のうち公園については,面積三千 坪以上の大公園33ヶ所,三千坪未満の小公園13ヶ所に加 えて,日本最初の都市計画決定となった公園道路 12 線が 計画決定された.公園の配置及び選定にあたり,天然の地 形が優れた場所,名勝社寺,河川沿いの空間,土地の取得 が容易な場所の利用を見込み 1),また公園相互の連絡を図 るために,散歩及びドライブに供する風致的な「公園道路」 を設けて,公園網として機能させることで利用価値の増大 を図った. この総合大阪都市計画の「公園系統」計画は,都市風致 の利用と形成,公園道路による公園相互の連絡と公園の系 統的配置という欧米由来の計画思想を,大阪という都市に おいて実現することを目指したものであった.その計画は, 戦前日本の都市計画技術のありようを示すとともに,当時 の都市計画技術者のすぐれた構想力を表しており,都市計 画史・公園史において重要な計画であるといえる. 総合大阪都市計画における公園系統計画は,主として大 屋霊城によって策定されたと言われている 2).大屋霊城は 1919(大正 8)年 4 月に大阪府公園設置調査会委員,同年 10 月に大阪府技師,翌 1920 年 3 月に都市計画大阪地方委 員会の技師の任命を受けた 3).では,大屋はどのようにし て計画策定に関わったのであろうか. 本研究は,これまでに明らかにされていない1919(大正 8)年から1927(昭和2)年に至るまでの大阪公園計画の策 定過程を明らかにし,その公園系統計画の成立について論 じ,そこでの大屋霊城の計画策定における役割と計画思想 の反映について明らかにする. (2) 研究の位置づけ 先行研究として,高橋は総合大阪都市計画における公園 計画の基礎骨格となった計画案として,1925(大正14)年 5 月に草案が完成した「大大阪公園計画」案の存在を指摘 している 4).また『第一次大阪都市計画事業誌』は大正期 における公園計画の詳細を示し 5),基礎資料として有用で ある.そのほか,総合大阪都市計画公園計画の内容と意義 を論じたもの 2), 6), 7),総合大阪都市計画公園計画の前身とな る公園計画を策定した主体の構想を示したもの 4), 8) がある. さらに近年,総合大阪都市計画における公園道路網計画の 詳細と,一部の公園道路の形成過程が明らかにされた 9). しかしこれらの先行研究は,総合大阪都市計画公園計画案 の策定過程や,関係主体の役割や議論の具体的内容の詳細 までは明らかにしていない. また,大屋霊城の公園論・都市論に関する研究 10), 11), 12), 彼の生涯の功績に関する研究 13), 14)は蓄積されているが,大 屋の都市計画思想が,総合大阪都市計画公園計画の策定過 程においてどのように反映されたか,という点は未だ不明 のままである. 近代大阪の公園計画の策定過程を考える上で重要な点は, 大阪市が 1925(大正 14)年に大規模な市域拡張を行った が,総合大阪都市計画(1928)の大規模公園に位置づけら れる公園はそれまでの間,旧市域外に位置したということ である.この市域拡張が,公園系統の策定過程における大 阪府と大阪市の両者の関わりを複雑にする一要因となって いる.本研究は上述した先行研究の成果の上で,大阪にお ける公園系統計画の成立について論じ,そこでの大屋霊城 の計画策定における役割を明らかにする. (3) 研究の方法 本研究では,近代大阪の公園計画策定に携わった主体と 総合大阪都市計画(1928年)における公園系統計画の成立 -大屋霊城の役割とその計画思想の反映The Development Process of Park System Planning of Comprehensive City Planning in Osaka Planning thoughts of park system planning proposed by Reijo Oya and the reflection to the development process -